●はじめに
本作には、古代中国修仙界の世界観において、現代社会では不適切である、流血を伴う激しい暴力や拷問、差別表現や性別の有無を問わない性描写を含みます。
上記をご留意の上、お読みいただけますと幸いです。・
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月の光を遮るように、漆黒に渦巻く妖雲が、強力な妖魔や邪祟が眠る閉山《へいざん》を煽っていた。
とある一画に、男十人でも動かすことのできない巨大な碑石で封じられた洞窟がある。一枚の強力な呪符が貼られているにも関わらず、その洞窟からはただならぬ霊気が漂い、風が吹くたびに不気味さが際立つ…。 だが、そんな靄のような霊気など感じまいと、何者かが碑石に近づき、貼られた呪符を見つめている。 そして、その呪符をゆっくり撫でるように触れ、口を開いた。「そこに眠る者よ、復活するがよい!」
その者は、念仏を力強く唱えるように、決して剥がしてはならない呪符を勢いよく剥がした。
良識のある者が目にしていたら、今頃この者は間違いなく腹を斬られていただろう。辺り一面は、瞬く間に轟くような地鳴りを呼び起こし、地面を揺らす。この世の終わりを知らせるかのように、巨大な碑石がガタガタと小刻みに揺れ始め、その者は碑石の前から三歩ほど下がった。
天を突き抜けるかのようにヒビが入り、碑石は遂に重苦しい破壊音を立てながら真っ二つに割れた。砂塵が舞い、暗闇の中視界が眩む。
しばらくすると、中からあの魑魅魍魎《ちみもうりょう》と謳われた妖魔・玄天遊鬼《げんてんゆうき》が腰を据えた様子で姿を現した。
顔は全く見えていないが、確かにこちらを向いていることだけは分かる。 しばらくその様子を伺うと、玄天遊鬼のドス黒く掠れた声が聞こえてきた。「私を解放するとは何が望みだ?」
「統治を乱す者を消してもらいたい」
「ならば、お前は私に何を差し出せる?」
「何でも。あなたの仰せのままに…」
玄天遊鬼は口角に残忍な笑みを見せる。
そして、何も言わずゆっくり立ち上がり、二言三言交わした後、その者を洞窟の中へ呼び寄せた。 この洞窟の中へ足を踏み入れたら最後、二度と戻ることはできない。 その者が意を決して入るや否や、瞬く間に唸り声と、聞くに耐えないほどの残虐な音が、暗い洞窟の中で響いた。 ・ ・ ・ ・「赤潰疫《せっかいえき》だ!どいてくれ!」
身体中の皮膚が赤くただれ、ぐったりとした息子を抱えた父親が、人々を掻き分けて走ってくる。
行き交う村人たちは感染を恐れ、口を覆う者もいれば、痛々しい子どもの顔を見て目を覆う者もいた。赤潰疫は、疫病神でも知られる玄天遊鬼が各地で振り撒く疫病で、封印される三十五年前にも各地で猛威を振るった。
触れるだけで他者に感染し、そのまま放置すると簡単に死に至る。適切な処置を施しても、その後は皮膚が黒くなり痕が残ると言われている。「誰か、流医はいないか?!誰か…頼む。息子を…、息子を助けてくれ!」
藁にもすがる思いで叫ぶ父親の問いかけに、誰も反応を見せない。
父親はその場で泣き崩れ、息子の頭を抱き寄せた。閉山付近の村は貧困で有名だ。
薬を買う金がないどころか、今日一日の飯にありつけることすらできない者もいる。この親子の破れた衣を見る限り、二人は決して裕福とは言えないだろう。父親の胸の中で抱きしめられていた息子の細い腕が、力無く、だらんと垂れたのが分かった。父親の手や腕、頬にも赤潰疫が表出し始めている。
「父さんも、すぐに行くからな…。向こうでは美味い飯をたくさん食おう…」
父親は涙を拭い、息子を抱えながら立ち上がった。 誰の視線も顧みず、悲壮感だけを漂わせて、この親子は静かに山の奥へと消えていった。「大敵現るだな」 「何のことだ?」 棘なような目つきで言い返す永憐の額には青筋が帯びており、深豊はこれ以上何も言わない方がいいと口をつぐんだ。 普段から感情の起伏を表に出さない者の怒気は恐ろしい。 深豊は、竹馬の友ならぬ親友の目で永憐の気持ちを察し、話題を変えようとした。 するとそこに、入り口から河南に立ち寄ってから橙仙南へ向かうと言っていた宋武帝と宇辰が、護衛たちと一緒にやってきた。 「お〜!来たか宋栄辰!元気だったか?相変わらず、王国師と似ているなぁ〜」 橙武帝が宋武帝を見るや否や、永憐の顔と宋武帝の顔を交互に見る。 永憐は口元だけを緩ませ、返事は宋武帝に委ねた。 「はははっ。最近、よく言われます。それより、お元気そうで良かった。全く、気を揉むことばかりが続いて…」 「本当になぁ〜。栄辰も不幸が続いて大変だったな…」 年長者は互いに溜め息を吐き合う。 近頃の世勢に、各国の疲弊度は増すばかりだ。 増え続ける赤潰疫と屍の退治。そこに朱源国との戦が加わるとなると、どれだけ修仙者がいても足りない。命を狙われている橙武帝を護るだけでも精一杯だというのに。 そんな会話を日が暮れるまでした後、橙武帝は気を利かせ小さな宴に皆を招待し、この黄華殿を彩らせた。 秀沁はさも当然のように蘭瑛を隣に座らせ、昔話に花を添えている。そんな様子を見て見ぬふりをしていた永憐から、一切の笑みが消えていたのは言うまでもない。 賑やかな宴は終わり、月明かりが雲に隠れるように黄華殿にうら寂しさが漂う。永憐もまた焦燥感に駆られていた。 初めて抱くこの感覚をどうにか落ち着かせる為、一杯の強い酒を飲んで寝台の上でただ目を瞑り続ける…。 すると、コンコンと部屋の扉を叩く音が聞こえてきた。 永憐はむくっと起き上がり、部屋の扉の前まで向かう。 「誰かそこにいるのか?」 「永憐様、蘭瑛です」 その声を聞いた永憐はそっと扉を開けた。 いつも見ている顔が目の前に現れた瞬間、漏れ出す安堵に思わず顔が緩みそうになった
翌朝。 馬に跨った永憐と蘭瑛は、梅林とパオに見送られながら宋長安を後にした。縮地印を結び、橙仙南の下町まで一気に進む。すると、活況に満ちた町並みが見え始め、永憐の背後に乗っていた蘭瑛は、目を泳がせるように景色を堪能した。 さすが、栄耀栄華と言われる橙仙南だ。 宋長安に初めて来た時に感じた感動が蘇る。 「永憐様、橙仙南ってこんなに素敵なんですね〜」 「そうだな。ここは、宋長安より富貴が多い。世に逢う生活を送ってる者ばかりだ」 二人はしばらく馬に揺れ、いつも馬を預かってくれるという預託舎へ向かう。到着すると、各国の上級来賓の御馬がずらりと並び、皆大人しく主人を待っているようだ。 永憐は蘭瑛を馬から降ろし、馬の紐を門番へ授ける。 そして、二人はしばらくこの煌びやかな橙仙南の町を歩き、風情を愉しんだ。 すると食べ物に目がない蘭瑛は、ある食事処に目が留まった。 汁物屋から漂う美味しそうな匂いが、蘭瑛の食欲を誘う。 「永憐様、一緒に食べませんか?あそこの汁物屋で」 「うん」 蘭瑛は永憐の袖を引っ張り、人集りの多い食事処へ向かう。蘭瑛が店の扉を開けると、気前のいい女将が出迎えてくれた。 「いらっしゃい!あら、素敵なお嬢さんに素敵な郎君ね。こちらにどうぞ」 穏やかな笑みを湛えた女将に席を案内され、二人は並んで窓際に座る。 蘭瑛は鶏肉と根菜の汁物を二つ頼み、店の中をきょろきょろと見渡した。 「そんなに楽しいか?」 永憐は、茶を啜りながら落ち着いた様子で蘭瑛に尋ねる。 蘭瑛は破顔した顔を見せながら答えた。 「はいっ!だって、久しぶりに外に出れたんですよ〜。たまには羽を伸ばしたっていいじゃないですか〜」 「まぁ、そうだな」 永憐は窓枠から見える景色を遠目に眺めながら続ける。 「お前はやっぱり、宋長安は嫌か?」 唐突な質問に答えが詰まった。 「嫌ではないですけど…」 蘭瑛はそれ以上言葉を繋ぐことが出来なかった。 決して嫌な訳ではない…。梅林の食事は美味しいし、藍殿にいるという安心感もある。ただ、何となく寂しさを埋められないだけで…。 蘭瑛がそんな事を思っていると、頼
真夏の昼間だというのに、閉山の周辺は霊気と邪気が漂うせいか、ひんやりと肌寒い。 玄天遊鬼の動向を探る為、討伐を終えた永憐と深豊は枯れた木々たちが並ぶ蕪穢な閉山に、足を踏み入れていた。 「本当に噂通りの場所だな…」 「うん…」 深豊と永憐は地面に落ちているカラスの死体を避けながら、一歩ずつ茂みの奥へと進む。上へと登るにつれ邪気が濃くなるのだが、二人は鍛錬を極めた上級修仙者の為、露程も感じない。 「あれか…」 「うん…」 視線の先には、薄暗く不気味に佇む漆黒の蔵が見えた。 噂では聞いていたが、玄天遊鬼が実際に封印されていたといわれる蔵を見るのは、二人とも初めてだった。 「こんな所まであの妖魔を引きずってきたのか?冠月道長は?!一体どんな超人なんだよ?!」 「確かに。こんな所で激しい闘いができるとは思えない」 永憐はふと足元に目を遣る。 するとそこには、勢いよく剥がされた呪符が酷く汚れた状態で落ちていた。 永憐はそれを手に取り、深豊に渡す。 「恐らく、誰かがこれを剥がしたんだ」 「ん?何だ?って、おい!こ、これって…」 「そうだ。冠月道長の邪滅印符だ」 「こんな強力な呪符、誰が剥がせんだよ?!」 冠月がかつて使用していたというこの伝説の邪滅印符は、相当な力を持つものでなければ剥がすことはできない。例え、この青藍と呼ばれた最強の二人であっても、宋武帝たるや国の年長者であってもだ。 永憐が深豊に尋ねた。 「天京と名乗る者を知らないか?」 「天京?知らねぇな…。噂で名前は聞いたことあるが、実物は見たことねぇ」 永憐は、先日没した美朱妃と天京が、深く関わりを持っていたことを話した。 「ほ〜。朱色の狸ジジィは、何を考えてるか分からねぇな。ここ最近、橙仙南でも妙な話があってよ…」 深豊は話しながら永憐と一緒に蔵の中に入り、地面の石についたただならぬ血痕の跡を辿る。 「橙仙南の橙武帝と弟の橙剛俊が酷く揉めてて、この弟がよく狸ジジィの側近、端栄と会っているらしい」 「端栄と?」 「あぁ。何か裏でやってん
朱源陽が離反してから、異常なほど妖魔や邪祟が出るようになった。それに加え、各国の町にも赤潰疫が蔓延し始めるという苦難が襲い、永憐たちは鎮圧を強いられていた。 幸いにも、橙仙南と青鸞州は継続して桃園の義を結んでおり、三国はそれぞれに情報を共有し、結束を高めていった。 普段から疲れを一切見せない永憐だが、この日の夜は藍殿で酷く疲れを見せていた。 蘭瑛はそんな永憐の隣に座り、消毒の準備をする。 「永憐様、大丈夫ですか?はい、手出してください」 「うん…」 討伐の過酷さを物語るように、負傷した永憐の手のひらは血豆だらけで、指の付け根部分が酷く爛れていた。蘭瑛はその手に、癒合の術と寛解の術を施し、包帯を巻き付ける。 「あんまり、無理しないでくださいよ…」 「平気だ。大したことない。お前こそ、新安で赤潰疫の治療に追われてるんだろ…。河南や函谷でも、やはり赤潰疫は酷いのか…?うっ…」 永憐は痛みに堪えながら尋ねる。 蘭瑛は雲散の術を施しながら続けた。 「はい…。なので、医家三宗が揃って各地に出向いているそうです。橙仙南の玉針経宗は針脈や漢方に強く、青鸞州の清命長宗は霊脈や予防医学に特化していますので、三家が揃えばそのうち終息するかと…。あ、そういえば、頼まれていた天京と名乗る流医のことなんですけど、情報屋に聞いても、天京と名乗る流医はいないとの事でした…」 「天京は流医ではないということか?ならば、そいつは一体、何者なんだ…」 永憐は片方の腕で目を覆い、溜め息を吐きながら、カウチにだらしなく凭れた。 そんな永憐を見るのに慣れてしまった蘭瑛は、何も触れずただ言葉を繋げる。 「私が思うにですけど、秀綾を殺したのは恐らくその天京という謎の人物かと。宋長安の人物はあのようなやり方はしないはず…。顔半分の陥没がかなり酷かったので、何か物凄い衝撃を受けたんだと思います。とても、人間の力とは思えない…」 「人間ではない可能性もあるということ
蘭瑛は今日も雹華妃のいる清雲殿に足を運んでいた。 あれから永憐が宋武帝に事の経緯を話し、雹華妃と東宮の周りは厳重体制となった。蘭瑛も一人で歩く事を禁じられ、宇辰の後輩・風里が蘭瑛の護衛を務める事になった。 さすが、宇辰の後輩だけあって礼儀を重んじ、温厚な人物だ。風里は丁寧に、雹華妃の女官たち一人一人に挨拶をして回っている。 今日は一段と暑さが厳しく、清雲殿の中は沢山の氷で埋め尽くされていた。東宮の小李はというと、手足をバタバタと元気よく動かせるほど回復し、今は赤潰疫の痕の治療に励んでいる。 「蘭瑛先生、小小のこの傷は、成長と共に薄くなっていきますか?」 小李の小さな頭を撫でながら雹華妃が尋ねた。 蘭瑛は雲散の術を施しながら、優しく宥める。 「はい。恐らく、この雲散の術を続けていれば、次第に消えていくと思います。六華鳳宗の先人たちの記録にも、そう書いてありましたから。ゆっくり様子を見ていきましょう」 小李を心配していた雹華妃の目から安堵が漂う。 蘭瑛はその雹華妃の表情に思わず目が止まった…。 歳は自分と変わらないのに、未来の宋長安の統治を担う小さな命を産み育て、母として東宮を様々な目から守ろうとする雹華妃の強さは計り知れない。容姿は華奢に見えるが、さすが妃だけあって、自分にはない器があると蘭瑛は思った。 (自分もいつか、雹華妃のように温かくて優しい眼差しを向けられる家族を作れるだろうか…) 蘭瑛は、氷の表面に映る歪んだ自分を眺めた。 ・ ・ ・ 一方、紫王殿では重苦しい空気が流れ、宋武帝は額に青筋を浮かべながら、眉間を揉んでいた。 どうやら連日の事件で、宋武帝の堪忍の尾が切れたようだ。 光華妃と美朱妃はそれぞれ侍女を従えて、カウチに腰を下ろしている。 もちろん、その横には永憐と宇辰の姿もあった。 宋武帝は怒りを含めた低い声で、話を切り出す。 「どうしてお前たちを呼んだか分かるか?いつまで、そうやって白を切るつもりだ?」 「だから何のこ
初夏の陽気から汗ばむ陽気へと移り変わり、宋長安《そんちょうあん》にも本格的な夏が到来した。 青々とした大木から蝉時雨が降り注ぎ、先日の凍りついた華宴の話は瞬く間に掻き消されていった。 藍殿《らんでん》での生活は何の不自由もなく、永憐《ヨンリェン》の部屋の隣にある部屋を使うことになった蘭瑛《ランイン》は、毎朝うさぎに餌をやりながら、梅林《メイリン》の美味しいご飯を食べるのが日課になった。 今朝もまた、梅林特製の油茶《ヨウチャー》を食べながら梅林と談笑する。 「そういえば蘭瑛、この子の名前はあるのかしら?」 「いや、飼うと思ってなかったので、考えていなかったんですけど…何がいいですかね?白いので包子《パオズ》とか?」 「ふふふ、それ食べ物じゃない。でも、包《パオ》なら可愛くていいんじゃないかしら?沢山食べるようになって、ちょっとふっくらしてきたしね」 「あはははっ。確かに!じゃ、今日から君はパオにしよ〜う!パ〜オ〜」 のんびりと大人しく床に座っているうさぎを撫でながら、蘭瑛はこのうさぎをパオと命名した。新しく名を貰ったパオは、嬉しそうにまたプウプウと鳴き始める。 「では、梅林様。パオをお願いします」 蘭瑛はそう言って、パオを梅林に預け、普段通り医局へ向かった。 医局に到着すると、見知らぬ侍女が蘭瑛を待っていた。 名は雪美《シュエミン》と言い、雹華妃《ヒョウカヒ》の侍女頭だそうだ。 淑妃の侍女頭が直接ここに来るということは、何か内密にしておきたい事情でもあるのだろうか。 どこか挙動不審にも見える雪美だが、蘭瑛はどうしたのかと先ず要件を尋ねた。 「実は昨日から、雹華妃様の二歳になる東宮様が、酷い高熱で伏せておられます。至急、御医の蘭瑛先生に診ていただけないかと、雹華妃様から御言付けを預かりました…。ここだけの内密にお願いしたく…、一緒に来ていただけませんか?」 そう言って、雪美は自分の指を絡めながら俯いた。 蘭瑛はすぐに「そういうことなら、すぐに参りましょう」と言って、葯箱を持って雹華妃のいる青雲殿《せいうんでん》へ雪美と一緒に向かった。 蘭瑛は誰もいないことを確認しながら、どうしてこのように内密で動いているのか雪美に尋ねてみる。 「何か言えないご事情でもあるのですか?」 「は、はい…。他のお妃たちには内密にしていただきたいので